「なんかそういうデータあるんですか?」が意図的に見落としているであろう点

どうも、oskn259です。

皆さんは、日本語という言語をご存知でしょうか?

これを習得しておくと、日本国内で就職したり、友人ができたり、買い物ができたりと何かと便利です。
ただ最近、LINEはスタンプで事足りたり、会社のmtgもミュートのカメラオフで済んだり、コンビニへ行っても「アッ…スー」で済んだりと言葉を利用する機会が減っているような雰囲気があります。

今回読んだのはこちら。

言語が消滅する前に
https://www.amazon.co.jp/dp/4344986369

書いてあることに加え、独自に解釈を入れつつ書いていきます。

人間はフィルター

人間の「意思」こそが事の成り行きの出発点であり、人の意思は100%その人が生み出したものだという認識が今では一般的かと思います。
この解釈があるから「責任」という概念が成り立ち、法整備が進んだりするわけです。 

ただこれは同時に、人間の意思が「無から有を発生させる」という装置だということを同時に認めています。
そう思うと体感としてもちょっと違う感じがしますね。
結局人の意思だとか行動は、環境や他人によって多分に影響されているし、そのことが形を変えて発露されただけなんでは?という具合です。

Fig 1. 意思は環境に多分に影響される

この前提は法整備みたいな手続き上のことを難しくするし、何より責任ベースの認識の方がシンプルで人々が受け入れやすい。
「複雑な事情とか、成り行きとか知らないけど、とにかくやったのはこの人なんでしょ?じゃあこの人のせいじゃん。」という感じです。

ただこの考え方は取りこぼす情報があまりに多すぎます。
Twitterを見ていて、とんでもねぇ奴がいるもんだなぁという内容のポストにコミュニティノートがついて、そういうことなら何も問題ないじゃん…と思ったことありませんか?
扇動的な表現ひとつでネットリンチをしてみたり、背景情報の提供で手のひらがひっくり返ることを思えば、見えている事象のみで判断するというのが難しいというのは分かっていただけると思います。

Fig 2. 責任は誰?

エビデンス

こういった少数の情報で物事を判断する態度において、その情報のことを「エビデンス」と本の中では表現しています。
なにか主張しようとすれば、エビデンスはどこ?とすぐ言われる、というのがもはや普通になりつつあります。 
そういう方法を否定まではできませんが、エビデンスは物事のほんの一部分でしかなく、それのみで判断すれば氷山の水面下部分をすべて無視して判断することになるでしょう。
採用活動をしていて、候補者のスキルシートだけ見て判断、なんてわけにはいかないのと同じです。
面談をして会話をし、その人の背後にあるものや文脈をよく理解しなければなりません。

エビデンスとは、言い換えれば個人のアイデンティティーを削ぎ落としていくつかの数字に還元していく、ということにもなります。
投資系の動画なんか見ていると決算の数字以外何も気にしなくて良い、とよく聞きますが、それもまさにエビデンス主義と言えそうです。

先に書いた通り、人間は結局外からの影響の集大成として何か意見を言ったり行動したりするわけですが、それがどのような変換を通してそうなっているかは本人であっても知ることはできません。
本の中ではそれを「心の闇」と表現しています。
闇と言っても否定的な意味というよりは、明確に表現し得ないもの、もしくは表現に出してはいけないものの集積場というイメージのようです。
そういった誰しもが備えるブラックボックス的存在を無視してエビデンスの形で提出させるというシステムは、生活の中で果たして機能するのか?
そのシステムに適合しない、それはつまりブラックボックスを解明できないというよりは、諦めて役者を演じられない者がコミュニケーション弱者として位置付けられるというのが近代の流れです。

人間を動かす2つの軸

じゃあエビデンス文化をやめてレスバしてればいいのかと言えばそうではありません。
本に出てくる「真理とレトリックの綱引き」という表現にあるように、情報を削ぎ落としつつも不動の事実であるエビデンスと、あらゆるものが混ざった闇鍋的、しかし感覚として理解できるような対話の両方が必要ということです。
自分はこの本の著者の他の本も読んだことがあって、今回でやっとわかったのですが、レトリック、つまり表現の世界は当たり前ながら現実世界の事象とは一切紐づいておらず、でありつつも人に影響を与えるという性質のものです。
個人の感想を言えばそれは事情を汲むという働きをする一方で、ゴリ押し営業マンの同調圧力や、まぁギリギリウソではないみたいな言い分を通すことにもなり諸刃の剣だなという感覚があり、だからこそ真理たるエビデンスと綱引きさせるということなんでしょう。
エンジニアとビジネスの対立なんかもこれと同じ構造がありそうに見えます。

このリアルワールドにおいては結局、人を動かすのはある種ストーリ、ナラティブ的なものであって、かと言ってハナシばかりを信じて突き進まぬよう(昨今のweb3とかAIとかそんな感じする)事実ベースのエビデンスが必要。
ただ現状ではあまりに言語サイドの力が弱まって、「事情」というものが一切勘案されない、ひいては個人のアイデンティティーが消滅していく世界観に向かっていきそうです。
すでにあらゆる品物の価値が「値段」という一つの数字に還元されて誰も疑わないあたり、この流れは結構根深そうではあります。

Fig 3. 単に売るというレベルに留まらない価値のレトリックが求められる